タイトークラシックス

たけしの挑戦状

たけしの挑戦状 タイトル画面
ビートたけしさんが監修を手がけた、アクションアドベンチャーゲーム。サラリーマンの主人公が宝探しの冒険をするストーリーに、斬新な仕掛けが多数盛り込まれた“伝説のクソゲー“が、まさかの追加コンテンツを携え、新たな姿となって登場!

ついにTAITO CLASICS 「たけしの挑戦状」が発売(配信)された。


ファミコン版「たけしの挑戦状」が発売されたのが1986年なので、31年ぶりとなる、リニューアル版のリリースだ。(しかも、今作には新エリア“あめりか”や“ひんたぼ語検定”などの新素、さらに、“むてきもーど”、“はーどもーど”が追加されているとのこと。とくに、“むてきもーど”は、めっちゃありがたいですねー。ナイスアレンジ! だと思います。)


むてきもーど 高難易度の「はーどもーど」、無敵になれる「むてきもーど」をオプション課金(各120円(税込))で遊ぶ事が出来る。

さて。
先週のアプリの発売(配信)の直後の2、3日は、ゲーム業界の知り合いのLINEやツイッターでも遊んでいる人を見かけた。某D編集部のNくんから、翌日には「クリアーしました!」というLINEが届いたり…。マジかよー!! そこの編集部、ヒマかよっ!?


「クリアーしました!」LINE

…という様子を見ると、春に、タイトーさんが“「たけしの挑戦状」がアプリで復活!”という発表をされてから、この日が来るのを待っていた人がけっこういたんだなあ、と思った。ネット界隈や動画サイトでも、すぐにネタにされていたしね。もちろん話題性ということもあるとして、でも、「当時のレトロゲームが懐かしい」とか「アレ昔好きだったんだよ」という、ようなわかりやすい「好き」とは違う。きっと他のどんなゲームにもない“何か”があるから、だろう。


よく使われる「たけしの挑戦状」の枕詞は“伝説のクソゲー”だ(そうだ)。


今回のタイトーさんのリリースにも、「伝説のクソゲー」と書かれているが、自分は少し違和感を覚える。それは、多くのクソゲーが制作者が意図した“おもしろさ”が実現できずに、結果的にクソゲーになってしまうという形で存在するのに対し、「たけしの挑戦状」は、意図的に、いや意図通りにそこを目指して作られたものであるからだ。むしろ、それらの不特定多数のクソゲーたちとは一線を画している。


「たけしの挑戦状」の、キャッチコピーは“常識があぶない”だった、と記憶しているが、そのことからも明白だ。


常識が危ない

当時の一般的なゲームの常識に則ってプレイしても、クリアーなんかできないよ、とそもそも宣言されているゲームであり、むしろそれがこの作品のコンセプトそのものなのだ。


1985年の秋に「スーパーマリオ」、翌1986年の5月に「ドラクエ」が発売され、今につながるファミコン時代の2大ビッグタイトルが誕生したあとの年末商戦期、1986年の12月10日に「たけしの挑戦状」は発売になっている。


当時は、ファミコンユーザーの大多数が子供たちだったとはいえ、アーケードゲームの移植作や、RPGやシュミレーションゲームなどの大人たちにも楽しめるゲームも増えてきた頃で、ゲームファンが日々増え、ゲームマーケットが爆発的に広がりつつある時代だ。


かつて存在しなかった、デジタルなエンターテイメントに、人々は熱狂し、次は何を遊ぼうか? あまたあるゲームメーカー(ファミコン参入メーカー)が次はいったいどんな未知のゲームを出してくるのか? ということに飢えていた時代だ。


RPGが売れれば「ウチも○○っぽいRPGを」とか、野球ゲームが売れれば「野球ゲームを出せ」とか、上層部やら営業やらが当たり前に言っていた時代。ある意味では、出せば100万本と言われた、売れ筋ならなんでもいいから出せ!! 的な時代でもあったその頃に、それまでのゲームの常識を根本から揺るがそうとしたのが、「たけしの挑戦状」だったのだ。これは、ファミコンファンの子供たちにとってだけではなく、むしろゲーム業界で働く大人たちにとってもスゴイことだった、はずだ。


しかも、ある意味で、ゲームが子供のおもちゃではなくなり、大人(作品を作品として享受する人たち)を対象にした表現者の表現=作品という形で発表された瞬間だった。


今や世界的なゲームクリエーターと認められ、海外では勲章さえ授与される宮本茂さんだって、当時はまだ「スーパーマリオ」の1作目が出た翌年だ。当時「スーパーマリオ」にハマった多くの子供たちは、宮本茂さんの存在すら意識していなかっただろう。また、ゲーム制作者を「作家」や「表現者」と考えていたゲームメーカーはごくごくわずかだった、と思う。


だから、個人の感性や美意識、生き方、人生観やそれを含むメッセージ性などがわかりやすく作品としてパッケージされる、ということが意識されたのは、「たけしの挑戦状」が初めてだったのではないだろうか。


誰もが遊べる、大人から子供までわかりやすく楽しめる、そんな良作を作りだしていく風土が日本にはある。そもそもファミコンの由来ともいえる“ファミリーで楽しめるコンピュータ”という、ユーザーフレンドリーな任天堂のもの作りは、「説明書を読まなくても遊べる」という万人が遊びやすく、誰にでも親しみやすいゲームという絶対的な進化の軸を、歴史的な必然として生み出していった。


それは、たしかにゲームがより多くのユーザーを獲得し、ゲームの一大生産地&消費地になり、日本=ゲーム大国という図式が世界中に広がっていく原動力ともなった。触るだけでわかる、手触り、気持ちよさが蓄積されつつあった時代だ。


一方で、その文脈(ゲームの進化の流れ)に対して、誰よりも早く、真っ先に、カウンターのように誕生した“強烈な批判精神”が、究極的に、“個人性の強い”「たけしの挑戦状」という表現だった、とも言えるだろう。


当時のファミ通 ※「ファミコン通信」(現:週刊ファミ通)1986年12月26日号/提供:Gzブレイン

なので、あらゆるファミコンのゲーム、「たけしの挑戦状」以外のすべてのファミコンゲームと、たった1本だけで向き合う形で、「たけしの挑戦状」は存在している(しかも今も!)。その唯一無二の圧倒的なまでの、孤高の存在感を、当時の子供も、そして今大人になった我々も(自分は当時も大人だったか…)、うまく表現しきれずに、他のよいもの(一般的なよいゲーム)と違う、という点に焦点を当てて、“クソゲー”と呼んでしまっているのではないだろうか。


たけしさんは、それまでにあった古典的な漫才を、スピード感があってまくしたてるスタイルと、世の中の常識を解体するかのような毒舌や皮肉で、漫才のイメージを変えてしまった人だ。そして、たけしさん(ツービート)を中心とした若い世代の漫才が、“マンザイブーム”を引き起こした。その“マンザイブーム”以降、お笑いも、お笑い芸人も、様変わりし続けていき、今につながっている。


当時から毒舌と言われたトークは、なのに、「赤信号みんなで渡ればこわくない」とか「寝る前にちゃんと締めよう親の首」といった、わかりやすい、キャッチーな標語にまで落とし込めらてて、結果的にものすごくマスにまでアピールしてしまう。


先鋭的かつ、カウンター的なのに、マスに強烈にアピールするパッケージにしてしまう、そんな才能がたけしさんにはあるんだろう、と思う。


これも結局、“毒舌”という言葉では表現しきれあい、常識を解体してみせる、シンプルかつ破壊力が高い、いち表現の形式だ。


それは、ゲームにおける“クソゲー”と同様に、圧倒的に「言葉が足りていない」。たけしさんのお笑いにおける“毒舌”は、「たけしの挑戦状」の、ゲームにおける“クソゲー”という言葉と、見事に相似形だ。


だから、世の中の常識を通例に解体してみせたたけしさんが、数年後にゲームの常識をばらばらに分解し、吹き飛ばしたのが「たけしの挑戦状」だと言えるだろう。(そして、そこにも見え隠れする美意識は、映画にもつながっていく)


具体的にみてみよう。
ゲームというのは概ね、敵が襲ってくること逃げるか倒すことが便宜上わかりやすいので、冒険という形や、戦場という形をとる。僕らは、ファミコンという今思えば、技術的にはとてもチープだった時代の、冒険や戦場に興奮し、そこで必死にヒーローになったり、なろうとした。


「たけしの挑戦状」は真逆だ。平凡なサラリーマンが会社にいるところから始まる。


その時点で、すでにこれは「わからないぞ」という不安なメッセージをプレイヤーに発することになる。“ゲームファン”こそ、よりそう思ってしまうはずだ。
社長室の壁にはいきなり「愛人」と書かれた巨大な文字。成績が悪いことを指摘されつつ、20万円のボーナス。主人公のサラリーマンは、相対した社長に、おべっかをつかうことも、有給休暇を取ることも、休職することも、退職することも、さらには社長を殴りつけることも選択できるという、自由さだ。


たけしの挑戦状 社長室

選択肢の数ではなく、そこで示されてるのは、会社員が本当は24時間いつでも持っている(はず)の、この世界の、この社会の、本当の意味での生きることの自由さなのだ。


いきなりサラリーマンが退職届を出すシーンでも、いきなり社長を殴るシーンでもなく、プレイヤーにどれにする? どれにしてもいいんだよ、と突き放す。


小説でも、映画でも、マンガでも、表現できない。
まさに、インタラクティブなゲームならではの、ゲーム史上に燦然と輝く、最高にカッコいいオープニングじゃないか!?


そして、街中を歩くと、いきなり殴りかかってくるやくざ者もいる。が、もっと恐ろしいのは、殴ってこない市井の人を主人公が殴って倒してしまえる上に、300円という安い対価が得られることだ!


対価がもらえることで、ゲームの常識に依るなら、一般人を殴り倒すことを正当化することもできるだろう。だが、それでよいのか? お前の”常識”は危なくないか? と問われているのだ。


さらに飲み屋でも、酔いつぶれてたどり着くわが家でも、たえずプレイヤーは主人公を通して、”問われる”。


嫁とおぼしきキャラクターに対しての選択肢は、めし、ふろ、かーちゃんねようぜ、旅に出たいんだ、離婚してくれ…と、もう、めまいがするほどだ。


たけしの挑戦状 嫁と

万事がそんな調子なので、プレイヤーは、緊張するし、ゲームの中なのに普段の日常以上に、自分の人生観や価値観と向き合わさせられる。気持ちが強くないと、おちおちゲームができない。それを笑い飛ばせるようになれよ、っていうメッセージとも取れる。


なぜなら、人生はもっともっととんでもなく複雑で、もっともっと選択肢が多い、というか無数にあって、見えない。しかも結果論でしか、正解がわからない。もしかしたら、最後までわからない(のかもしれない)。なんで会社やめて、俺は三味線ならったんだろう。なんて、後からじゃないと正解かどうかなんてわからないのが人生だ。でも、人間は生きていかなくてはならないから、選択し続ける。すべては自分の決断なのだ。そのつけは、自分で払うしかない。必ず、自分のケツは自分で拭かなくてはならないのだ。


「たけしの挑戦状」は、その真理を見事なまでに再現している。だからこそ、ゲームの常識になんて、縛られない。だから僕らは、いま「たけしの挑戦状」を遊ぶと、「ゲーム」という枠よりももっともっと大きな真理の中に投げ込まれて、当時はまだそれを知らない子供だったことに(自分はまあまあ大人だったけど)、衝撃を受けるのだ。


そして、人生を知らない子供たちが見ていたものの正体は、「人生=クソゲー」という毒舌だったのかもしれないな(僅かながらの成功の確率は存在していたが…)、、とも思う。


…というようなことを考えながら、久しぶりに「たけしの挑戦状」をプレイした。改めて、1986年にこのゲームが発売されたことは、奇跡だと思った。


バカタール加藤バカタール加藤

プロフィール

株式会社Gzブレイン所属。
「ファミ通64+」、「週刊ファミ通」、「Walker47」等の編集長を歴任。現在ニコニコチャンネルにて、「世界でいちばん役に立たないゲームch.」や「ユリコちゃんねる」といった番組をプロデュース。
また、毎月第2・第4火曜日、「東京中日スポーツ」の紙面で「オヤジでもわかるゲームな話」を連載中!

たけしの挑戦状

たけしの挑戦状

¥840(税込)、追加購入コンテンツ各¥120(税込)

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